特設ブログ|シニア・カウンセラーたちの毎日 特設ブログ|リーダーたちの奮闘記 home お問い合わせはこちらまで

2009年04月20日

野良猫

この季節になると、窓を開ける機会が多くなる。
開けると、ムッとする猫のオシッコの臭いが鼻につく。猫嫌いの人ならたまらないだろう。

庭には常駐する親子の牝猫と頻繁に来る耳の聞こえない牡の親猫、そのライバルの牡の白猫がいる。
野良猫に餌をやるというより家の外で飼う外猫だ。
幸い、近所からは文句は出ていない。2匹の牝の親子は私が捕獲機で捕まえて避妊手術をしたので、今でも、私を少し警戒する。

10年ほど前は牝の家猫が2匹いた。
今の野良猫はみな太って、太いあるいはぶつ切りの尻尾だが、家猫は2匹とも痩せて、細く長い優雅な美しい尻尾を持っていた。
一匹は黒猫、一匹は茶トラ、今思えばどちらも綺麗でスマートで、最近には珍しい美しい猫だった。

特に、茶トラのミーは冷たい目をした女王様。
人間を人とも思わぬ野生の猫。身の丈ほどの生魚を尻尾からバリバリ食べ、用便は全部外。
気に食わないと家人をも引っ掻いたり噛みついたり、高い棚からオシッコを盛大に撒き散らす。
ところが、この傲慢なミーは家の外で家族に会うと、優しい鳴き声で駆け寄り甘えて抱かれる。
家の外と内でのそのギャップ、その奔放ぶりが家族の賞賛を一身に集めた。

ミーは丁度彼岸の日に紙のように薄くなり17年の生涯を閉じた。
庭に埋めた遺体の側の葡萄の木が大きくなった。

この野良猫達も、いずれ皆いなくなるだろう。
庭から臭いが消えホッとし、少し寂しくなるだろう。
posted by 管理者 at 16:01 | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月10日

東京ソナタ

都内、線路の側の小さな家に住む、表面的にはごく普通の4人の家族。
リストラされたことを家族に言えない父をはじめ家族全員がどの家庭でもあるような問題を抱え、ことは次第に大きくなる。

4人皆がいい人でありながら、否応なく、破局に向かうのは、家の側を通る度に家を揺るがす電車のような、軋みつつある世界につながる大都会東京の殺伐とした現実です。

繰り返される、家の窓越しの電車の通過シーンと食事のシーンは、家族を壊そうという力と繋ごうとする力の衝突にも思える。

そして全員が秘密を抱えたまま壁に突きあたり挫折し、その後、それぞれが自ら立ち直り、家庭が再生する4人のソナタ。

問題の重さの側に沢山の笑いがある。
多くの賞をとっただけありとても面白い。

ところで、映画のラストに次男がピアノを弾くシーンがある。
普通、音楽は俳優ではないプロが弾くので、映像と音を一致させるには、役者の顔の映らない手元と音のシーンか、役者の姿だけ映して手元を隠すか、遠景で役者の手元が良く見えないシーンかのいずれかになる。
ところがこの映画では、俳優の全身を映したワンショットで全曲を演奏させた。しかも、俳優の手と音があっている。鮮やかな手つき。これはどういうことか?。

ほんとにピアノが上手な俳優?。まさかCG?.眼を凝らすと少しおかしいようだが、判らないほどうまい。私が大好きな曲だったが、注意は一瞬たりとも音楽に向かず手元を見つめていた。
このシーンは監督の挑戦のように思えた。さあどうだ、わかるか。
映画終了後エンドロール?でみると、やはり音楽はプロ演奏。
あの小僧なかなかやる。
posted by 管理者 at 13:59 | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月27日

記憶

神戸の新開地から神戸駅に向かう途中、宮崎産地鶏をうたった飲み屋に入った。
すでに数人のお客がいて、奥の座敷には若者が宴会中。
中年のママさんが、お客相手に、料理をしながら丁々発止。

焼き鳥を注文して、しまったと思った。東国原知事の宣伝にのせられ以前食べたが、このタイプは嫌いだったのを忘れてた。
大きな豆を鞘に入ったまま焼く料理はうまかった。
ビールを飲みながらぼんやりしていると、ママさんが「お客さん初めてじゃないね」。「えっ、初めてなんですが、、」と小声で呟くが、ママさんはもう他のお客につっこみを入れている。

大きな鰯、という品札を見て注文すると「お客さん九州の人でしょう」「はい、そうです」「やっぱりね」。なにがやっぱりなの?。

しかし、この店は初めてのはずだが。数ヶ月前に来た時は、、いや、あの時は、三宮で飲んだ。その数ヶ月前は、、あの時も三宮だ。その前は。。
私は神戸大震災の前に神戸に1年ほど住んだことがある。その時は、いろんなところで飲んだが、ここは初めてのはずだ。
それとも自分の記憶違いか?。

そっとママさんを見るとニコッと笑う。つられてこちらも笑う。
自信ありげなママさんの態度。
料理しながら機関銃のような会話。頭良さそう。記憶も良さそう。

そういえば、最近、物忘れが気になる。歳が歳だからこれで普通のはず。でも。。
TVドラマの警察での取調シーンを思い出す。
「お前はこう言った」「いや言ってません」「もう忘れたのか」「お前、頭確かか」軽蔑したような眼。

一瞬でも自分を疑うと、とめどなく自信を失う。。ずるずると底なし沼のように。

ああいやだ。酒飲んで忘れよう。
posted by 管理者 at 11:31 | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月09日

映画

この2週間で3本の映画を観た。
チェインジリング、七つの贈り物、パッセンジャーいづれも肩の凝らないハリウッド映画だが面白かった。
パッセンジャーの作りには仕掛けがある。観た人は多分ある映画を思い出すだろう。七つの贈り物にも語りに仕掛けがある。
いづれも仕掛けが判ったら興味半減。それでも後味が悪くないストーリーは救いだ。観客を楽しませ驚かせようと手を尽くしたらこんな仕掛けの映画になるのか?。
その点、チェインジリングは正統派。C・イーストウッドがついに音楽まで作る。単調なメロディーだがなかなかいい。映画にピッタリ。
この映画は実話だということが、あり得ないような展開から生れそうなシラケを事実が押さえつける。事実は小説よりも奇なり。事件を生んだ暗い時代と都会。
振り返ると3本に共通することは、ストーリーに謎があること。謎は観客を引き込む大きな推進力。謎を追って夢中になる小さい頃からの探偵小説好きは歳を取っても変わらない。
勉強会では、クライアントのデータに基づき、クライアントの症状を説明するストーリー(仮説)を幾つも組み立てねばならないが、これが難しい。
先生が語るストーリーはいつも意外がだ説明を聞くとなるほどと思う。先生のストーリーを聞く事は私にとって、犯人は判っているが動機が判らない推理小説を読むことと同じ楽しみだ。
posted by 管理者 at 12:46 | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月14日

秋葉原殺人事件

恐いですねぇ、みんなが相手になってくれないんだもん、という理由により彼はインターネットへの書き込みでモチベーションを高めながら、みごとに目標を達成してしまったわけです。でも?

世の中に出る場合、ほとんど一人で出てきます。このごろは五つ子なんてあるようですが、そんな場合でもお互いを意識しているかどうか、おそらくかれらも分からないのではないでしょうか?

ぼくには1967年から数年海外で暮らす機会がありました。それまでの20+アルファ年間いつも身近に兄弟がいて、祖母が二人に祖父が一人、それに両親がそろっている中で生活していましたから、いったいこりゃなんじゃ!というのが正直な感想であり、食事の心配から着る物の洗濯まで全部自分がやる、やらないでいたら誰かがやってくれることはない、というキツイ気分を心に留めるまで2−3ヶ月かかってしまった記憶があります。

心理的に言うなら、秋葉原殺人事件の犯人は追い詰められていた、そういう気分になっていたものと考えるのが普通です。何でそれまでに周りの誰かが気づいてあげなかったのか、などというのはまったく犯人の周囲にいなかった人が言えることで、そもそもあまり言ってはいけないことの中に入るせりふだとぼくは考えます。


人が周囲に寄って来ない、それは本人に魅力がないからでありまして、それに尽きるのでは?じゃぁ魅力ってなによ!一般的に魅力的な人と表現されるところの魅力をぼくは言っていません。生まれが違い、育つ環境が違えば同じ気質を持っていても、結果には大変な違いが出る、そんなこたぁ皆さんご存知でしょうが、じっさいどのくらい違うのかをはかる物差しなんかありゃぁしないのです。

人が自分を避けている、そう感じるときがありました。急になんですが、子供のころ近所の仲間になかなか入れなくて母親に付き添ってもらい、お願いに行った記憶があります。この場合ぼくは彼ら=近所の子供に嫌われていたわけではなく、単に自分に意気地がないため「遊んでよ」、あるいは「仲間に入れてよ」あるいはもう一歩「それ面白そう、教えて!」みたいな素直な感情表現ができなかったためだと、今になれば理解できます。

昔から「子供は残酷なもの」ということになってます。それは、世の中のことを知る媒介に両親、兄弟が介在するところから、人に対する自身の考え方を持つことなくいきなり10歳も20歳も年上の人たちが話しているところから吸収した、というより、その中から自分に気に入った言葉を記憶して無意識に利用してやろう=これすなわち学習でありますが、という積極的な気持ちのなせる業であろうと思うんです。

したがってそばにいる年上の人、あえて大人とは言いません、にはこまっちゃくれて聞こえたり、乱暴に聞こえたりするわけです。

で、殺人犯人のどこにあるのか?子供のころの環境でしょうね。親には申し訳ありませんが『良い子』でいることに何よりも価値を認めていたのでしょう。ただし、良い子でいてもほめることはしなかった。それがあたり前であるような顔をして接していたのでしょう。多分感情の交流がなかったのではと考えてしまいます。子供にとって、これほどつらいことはない。何をしてもわけがわからず、とりあえず良い子にしていれば黙っている親がいる。

だから感情がどっかに仕舞いこまれて顔を出さないままに、秋葉原へ突っ込んだ。さびしいやぁね、ホント!

yinoway
posted by 管理者 at 09:05 | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月22日

ジクゾーパズル

カウンセラーはクライアントから得られた情報を基にクライアントの症状を説明するストーリー(仮説)を組み立てる。
全ての情報を使い、複数のリアルなストーリーを創ることはとても難しい。

勉強会では、先生が幾つものストーリーを簡単に紡ぎだすのを、手品師が空の帽子の中から次々と物を取り出すのを眺めるように、驚きつつ嬉々として聞いている。

ところで、クライアントの情報をジクゾーパズルのピースとすると、ストリーは台紙に組み込まれたピースが作る絵である。
ピースとピースの間の隙間は、まだ得られてない情報である。
隙間が少ないほどくっきりした鮮やかな絵になる。

最近、先生のストーリーを聞いた時の感動には2種類あることに気づいた。

先生は、ピース群が脈絡のないバラバラな情報に見えるとき、台紙を大胆に曲げ、捻り、その曲面にピースを配置する。
そうすると全体として思いがけない構図が見えてくる。
これはいわばマジックみたいなもので、その鮮やかな手つきと奇抜な曲面に呆然と見とれてしまう。

もう一つは、全ピースがピッチリと隙間なく組み合わされたコンパクトな平面の絵である。
これに対して先生は、面白くない、いじり様のない、平凡なストーリーと言うが、私には、この小さな推論を積み重ね、ピースとピースが1mmも動かしようのない緻密な絵の方に、より感動することが多い。



posted by 管理者 at 13:12 | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月02日

映画

昔は、少々小難しい映画やマイナーな秀作に凝っていた気もするが、
最近は、地金が出てか、気楽なSF、CGもの、ミステリー、ハリウッド映画によく行くようになった。

先日、ノーカントリーとゼアウィルビーブラッドを観た。
最近の配給会社はだらしなく、いい日本語のタイトルをつけるための苦労を回避する。
それなら、いっそう、英語のまま書け、と言いたくなる。

ところでこの映画は、評判になるだけに面白い。幾つかの賞も貰ってるようだ。
しかし、二本共が、剥き出しの欲望、冷酷、暴力、血、死、汗と脂(油)、殺伐とした風景
といった映画で、米国は変わってしまったとしみじみ思った。

この重く、ザラザラした、やりきれない映画は米国の真実をついているのだろう。
楽しくはないが、動かしがたい迫力がある。
これが9.11の結果か?。

これまでも、暴力、血、死といった映画は何本もあったが、どこか質が違う。
この壊れ方はもとに戻らないように思える。
日本とは異質のように思える。
しかし、日本の社会も、また米国と違った風に壊れている。(F)

posted by 管理者 at 16:56 | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月01日

ホメオスタシス

ホメオスタシスとは、生体の内部や外部の環境因子の変化にかかわらず、
生体の状態が一定に保たれるという、生物のもつ重要な性質のひとつ、だそうだ。

生物はみんな一定の状態に保たれると安定する。安定が快適である。
ところで、その一定状態(レベル)には高いものもあれば低いものもある。
病人は低く、元気な人は高いということも出来るだろう。

そして、レベルの変化は、ダウンであれアップであれ、生物にとっては苦痛だ。
しかし、苦痛でもトライせねばならない時がある。
手術した病人も、最近では、直ぐに苦痛をおして運動させられるという。

人は年をとるとだんだんレベルが低くなる。
最終的に死というゼロレベルに行き着く。
そしてこれは避けられない自然の成り行きであり、
滑らかに、連続的に、そこに行き着くことが幸せだろう。

部屋のベットで横になりたがる老人は、
寝て過ごせば、また起き上がるようになるのか、
それとも、もっと下のレベルに移るのか?

この老人は、もう、最後のときに向けてレベルダウンに任せるのが幸せなのか、
それとも、もう一度、レベルを上げる努力をしたほうがいいのか?。
まだしっかり意識のあるこの老人にも、
窓の外を眺め、外の空気に触れるというささやかな刺激すら
避けるべきとされる時が来るのだろう。

だれもがある時に、そのターニングポイントを通過する。
しかし、本人も、医者も正しいターニングポイントがいつかは分からない。(F)
posted by 管理者 at 14:52 | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月19日

騒音恐怖症のぼく

世の中どれくらいなくてもどうってことない騒音に満ちているか知ってます?ぼくは騒音過敏症なのであります。騒音を定義しましょう。要は冒頭の一文がそれです。信号が変わるときの信号音、携帯にくっつけている鈴、携帯のピーピー音、そしてもちろんヘッドフォンから漏れるホワイトノイズ。


なぜこんなに音に敏感になっちまったのか、ある日から数日間、昔の話ですが、考えてみたんです。考がえるったって典型的B型人間のぼくは、この歳になってもまとめて集中して考えることができません。本を読みながらチラッと3分間、パソコンをいじりながらチラチラッと10分間に3回ぐらい、そんな具合に数日間ですからほかにもいろいろ並行して考えてることがあって、まとめになかなか入れないのも事実です。


初めに得た結論はヘッドフォンのシャカシャカ音。学生時代にジャズカルテットのピアノ弾きをやってたもので、音が鳴るとすぐキーは?テンポは?コードは?と音を追っかける癖がついてしまい、それがトラウマのようになって煩わしくてしょうがない、というものでした。この結論に4ヶ月ほど一人納得していたんですが、違うよなぁーとある日気付いてしまいました。なぜならいわゆるホワイトノイズが気になるならそれは周波数の問題じゃないのかい?とひょっと思ったんです。すなわち器質的要因じゃないかと思ったんですが、


それでまた自分の中味を検討し始めました。こんどは数日間では決着がつきません。ほぼ1ヶ月間ああでもないこうでもない、そうするうちにいろんな音、周波数、音色(これは波形に関係するのを知ってました?)、リズムに気付き始めたんです。しっかりどんな音が気になるのかリストしましょう。


大きすぎる車内アナウンス、鉄をはめ込んだ女のパンプス、携帯電話をマナーモードにしてもなおかつ力強くキーを押すプチプチ音、車内で新聞を読む時の紙を折り曲げる音、力任せにPCのキーボードを叩く音、もう地獄なのであります。この中でも一番腹が立つのは電車の車内アナウンスです。なぜなら、『おい、うるさいよ!』と車掌をつかまえて言うことができない。同様に3人ばかり右の方へ行ったところでヘッドフォンを聞いてるばか者が撒き散らす騒音、これはもうホワイトノイズではなく旋律がちゃんと聞えるんだから頭へくる!


文句を言います。時々笑顔できちんと対応してくれる人がいるとほっとします。日本もまだまだ捨てたもんじゃない、ですよね。かかとに鉄をはめ込んだとしか思えない女のパンプス、もちろん男の靴でも革靴のいいやつはカッカッと音がしますが、こっちはいいんです。なぜならすぐにぼくを追い抜いて先へ行っちゃうんで忘れられます。何がはらたつのりかというと、だらだら歩いて引きずりながら歩いて幸せそうな顔してる人間なのだ!


これは同僚が克服策をサジェストしてくれて、それを採用しガス抜きにしてます。すなわち足音にあわせて歌っちゃうんですねぇ。できるだけ大きい声でやると効果があります。すなわち歩調を速めて先へ行くか、横へ避けちゃってくれるので大助かりです。らららった、たったったっ。できるだけ行進曲を避けます。まぁジャズのアドリブの練習だと思えばなかなかいい練習。


なぜ?テンポがずれるんですね。微妙に裏打ちになるほどのずれではありません、1/3から1/4拍ずれるんですね。これがまた腹立たしい。信じらんないよまったく。


こうしていろいろ問題が明確になってくるにしたがって、昔から親に言われた「分相応に」という言葉がよぎるようになりました。その代表例が車内放送です。チョットつながらないでしょ?でもよく考えて見てください。車内放送の役割はなんです?駅名、それも次の停車駅の案内、ですよね?


しばらくニューヨークへ行っていませんが、かの地の地下鉄はきわめて無愛想に駅名だけをアナウンスしてました。決してTimes Squareにはあれもこれも乗り換えです、みたいな案内はしてませんでした。もっともニューヨークの地下鉄線は千代田線とか日比谷線とか面倒な名前はついてなくて、RとかQ,とかQQとか命名されていて、これを聞き取るのに半年ほどかかったことを覚えています。


でJR京浜東北線の車内アナウンスは本当にうるさい。山手線もそうですがこのごろ英語のアナウンスまでするようになったのです。そんなの関係ねぇーなのです。たしかに昔から日本はアメリカの植民地みたいなもんですが、それはアメリカが強いのではなく、日本の官僚制度がすべての活力を奪っているわけで、なんで日本へ来るんなら日本語勉強して来い、っていえないんです?


すなわちぼくが感じるところは、『JRに乗ってもらってありがとう、次は蒲田駅だけどもしかしたらあんたの降りる駅とちゃいますか?』と車内アナウンスしていたのに、いつのまにか『おう、乗ってるかあんたら、俺等は英語まで話すようになっちゃったからよぅ、ついでにお前等喧嘩すんじゃねぇぞ、携帯がうるさいとかなんとかいいながらこのごろ喧嘩するばか者共がいるからまっマナーモードにしとけや。これだけ言ってるんだからOKだろうなぁ、エッ?』


いつの間にか上から話すようになってるんですね。これがぼくの癇に障る第一点なのです。すなわち分不相応の音=騒音なのであります。


つづく
(yinoway: インターネットマーケティング
posted by 管理者 at 14:08 | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月12日

ぼくは騒音恐怖症

気が短くて涙もろいという、奇妙な性質をぼくは持っています。音に敏感で景色に鈍感です。これがどんな作用を及ぼすかというと、電話で相手の声を特定できます。たとえ一度しか聞いたことのない声でも、1週間以内なら誰だかわかります。それ以上日がたつとそもそもその人に会ったことを忘れちゃうので、なんか聞き覚えがあるなぁというくらいの認識レベルに落ちるのはしょうがない。


景色に鈍感という点では顔を描写することができません。鼻が丸くて耳がとんがってる、などという描写が大の苦手でありますが、顔の印象は認識できるようです。あるいは表情というほうが正しいかもしれません。知った顔は群衆の中から簡単に見つけ出すことができるのです。


でも誰某の顔はね、・・・・ということができないのです。一つは根が正直者であるため、いやいやほんとです、丸い顔?楕円と丸の境目はどこら辺?これが気になってしょうがない。耳がとんがってる、って丸いのと、角ばっているのと、とんがっているのの境目はどこ?


だから自分ではOKだけど人にうまく説明できないことがずいぶんあるのです。これって実は言葉の貧困かもしれませんが。もう一つ毎日半分、ちょっとおおげさ、1/4くらいパニックになっているのが電車内騒音なのです。そのとおり!「音に敏感」が悪い方向に作用するのであります。


騒音とは何か?ヘッドフォン、携帯のメール作成、貧乏ゆすり、赤ん坊の泣き声、幼児のつぶやき、小娘の話し声、おっさんの大声、ピンヒールの靴音、もう死にそう!基本的に高周波数のホワイトノイズがだめなんです。


昔すこしばかりジャズをやってました。担当はピアノでありますのでアドリブ聞きながら音をとる癖がついてしまい、音が聞こえるととにかく確認するのです。何を確認するかというと、音程をとろうとするんですねぇ、困ったことに。だから耳を澄ませて一生懸命聞く癖があるのです。


もう地獄!とくに昨日なんかひどくてブラスセッションが斜め右上から聞こえてくるのです。斜め右手に20前後のお嬢さんがつり革につかまって、イヤフォンが耳についてる。さらに3メートルばかり右手にいる、デイパックを背負ったお宅風のお兄ちゃんの耳にイヤフォンが入ってる。


こうなるとぼくはもうどうして言いかわかんない。でもとにかく不快ですからまずお嬢さんに音を小さくしてくれと頼むのですが、彼女がボリュームをいじっても音は不変であります。となればこれはもうあっちのお兄ちゃんしかいない。


固く信じてぼくはそのおにいちゃんに同じように、困ったことにちょっと遠いので大きい声で言っちゃいました。でも、それでも変わらないんですねぇ。こりゃぁ大変だ。いやいやもうこの年になれば周囲の視線なんて気になりません。不快感をなんとか払拭したい、ただそれだけ。


で結局どうなったか?そのままです。このごろの若いもんは品質が落ちてきて人の迷惑なんか考えもしない、なんて一人悶々と怒りまくり、少しばかりあった眠気もなくなっちゃったのであります。さて誰が悪い?


そりゃもう自分の気持ちをコントロールできない自分が悪い。だって、20年前に子供のつぶやきや靴音が気になることはなかった。ヘッドフォンについてはいつかアップルその他の全メーカーを訴えてやろうかと思うのでありますが、携帯とあわせて生きにくい世の中にした責任を取ってもらいたい。そのくらい怒りまくっております。


コーヒーの責任かもしれない、あるいは脳内ホルモンバランスが悪いのかもしれない、そもそも自分の気持ちをコントロールすることの難しさに正面切って、しかも人生の大半を生きた今の時期に対決する心構えなんかないのです。


何が言いたいかわからない?以上の症状は決して強迫神経症であるとか、誇大妄想性障害であるわけではありません。ただ単に少しばかり脳の内部に変化が生じた結果であり、食物と体質のマッチングの悪さでしかないのであります。したがって?治療可能です。


なに、コーヒーの量を半分にすれば、このとんがった気持ちはかなり納まります。それに加えてあまりに怒りがひどければ、それなりの薬でホルモンバランスを回復できる時代になっています。ねぇ毎日を気持ちよく過ごしたいですよね。


怒りが物事を解決することはほとんど、絶対ありえないことも年を重ねるとわかってくるわけで、せっかくの人生お互い気持ちよくすごす手立てを講じあうのも悪いことではないでしょう?
posted by 管理者 at 16:44 | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする